LOGIN思案に沈んでいたそのとき、部屋のドアノブが静かに回された。次の瞬間、瑛介がそっと入ってきた。目が合った瞬間、瑛介はわずかに驚いたように動きを止めた。彼女がもう起きているとは思わなかったのだ。しかもベッドに寄りかかってスマホを見ている。ドアを閉めたあと、瑛介はベッドの端に腰を下ろした。「起きたのか。一声かけてくれればいいのに」弥生の顔色が少し冴えないのに気づき、瑛介の表情がわずかに曇った。「何を見てた?」「......別に、なんでもないわ」弥生は咄嗟にそう言って、スマホを枕元に置いた。そしてすぐに話題を変えるように聞いた。「ずいぶん寝ちゃったみたいね。この間、ちゃんと大人しくしてた?」「......僕を子ども扱いしてるのかい?」瑛介は苦笑しながら、そっと彼女の鼻先をつまんだ。「それに、君がここにいるから、僕がどこにもいかないよ」温かな感触に、弥生の心臓が一瞬止まったように跳ねた。目の前の彼の穏やかな顔を見つめながら、思わず訊きそうになった「私たち、昔、何があったの?」その言葉は唇の裏で溶けていった。今はまだ、記憶の全てを取り戻していない。中途半端な情報だけで問いただしても、真実にはたどり着けないだろう。そして断片的な記憶の上で、自分にとって正しい選択を下せるとも思えなかった。......やめよう。すべてを思い出してからでいい。そう心に決めた弥生は、この件が片付いたら由奈に会いに行き、記憶を取り戻す手がかりを探してもらおうと思った。彼女が何か言いかけては飲み込み、黙り込む様子を見て、瑛介は少し迷ったが、結局何も聞かずにそっと見守った。彼女が話したいときが来たら、そのときに話してくれる。「お腹、空いてない?ルームサービス頼もうか」確かに腹は減った。「......うん」最近、弥生の体調は少しずつ良くなっており、食欲も戻ってきていた。「じゃあ、行こう」弥生が手をついて起き上がろうとしたとき、瑛介がスマホを取ってあげようと手を伸ばした。その瞬間、彼女はまるで反射的に、ぱっとそれを取り戻した。その動きはあまりに早く、まるで奪われることを本能的に恐れたようだった。二人とも、しばらく動きを止めた。「......ごめんなさい。別に、そんなつもり
だが、これから穏やかに生活したいなら、会社のことを放っておくわけにはいかない。ちょうど傷もだいぶ癒え、弥生も眠っている。瑛介はこの機を逃さず、仕事に取りかかった。部屋の中は静まり返り、ノートパソコンの稼働音しか聞こえなかった。弥生が目を覚ましたとき、雨はすっかり上がっていた。道路の交通も少しずつ回復し、警備員や清掃員が動き始めていたが、場所によってはまだ水が引いていなかった。瑛介と話したあと、弥生は無理に帰る気を失っていた。ひなのと「五日以内に戻る」と約束したが、今日はもう二日目だ。瑛介が「会ってこそ心が解ける」と言うなら、この数日のうちに一度は会う必要があるだろう。彼女はベッドにもたれ、スマホを手に取った。画面には多くのチャット履歴が並んでいる。その中で最も頻繁にやりとりしているのは親友の由奈だ。弥生は由奈とのトーク画面を開き、そのまま自分のタイムラインの過去の投稿写真を見返していった。ひなのと陽平、そして自分の三人で写っている写真を見つけると、自然と目元がやわらいだ。生きていてよかった。こんなにも愛おしい二人の子どもに出会えたことは、本当に幸せだ。死の淵をかすめた経験があるせいか、弥生は以前よりも子どもたちへの愛着が強くなっていた。投稿は多くない。ほとんどが、子どもたちと出かけたときの写真ばかり。しかし、ある非公開投稿に気づいたとき、弥生の指が止まった。それは、自分だけが見られるように設定していたものだった。そこには、「二度と愚かな真似をしないで。同じ過ちを繰り返さないで」と書かれていた。その短い言葉に、弥生の心がかすかに震えた。どういう意味?「愚かな真似をしない」って、何を指しているの?投稿日を確認すると、それはほんの数か月前のことだった。弥生の胸に不安は広がった。さらに過去の投稿を遡るうちに、彼女は愕然とした。どの写真にも瑛介は一度も写っていない。弘次の写真がないのは当然だ。彼との関係はまともなものではなかった。彼女の性格からして、それをSNSに載せるはずがない。だが、瑛介は違う。ひなのと陽平の父親であり、共に過ごしてきたはずの人だ。なのになぜ、一枚もないのか?それに、あの自分だけに見える投稿に書かれていた言葉......ま
そう思うと、弥生は思わず瑛介を睨みつけた。「全部あなたのせいよ」「え?」「昨日、帰ろうって言ったのに。あの時帰ってたら、こんな雨に閉じ込められることもなかったのに」瑛介はしばらく黙って彼女を見つめた。「......もしかしたら、運かもな」「え?」「君たちがもう一度出会うための縁ってやつかな」その一言に、弥生は息をのんで沈黙した。長い沈黙のあと、小さな声で尋ねた。「どうしてそんなに、私が彼に会うことにこだわるの?」嫉妬しているんじゃない?だから、なぜ会わせようとするの?弥生には理解できなかった。「会ってこそ、心が解けるだろ」弥生はようやく彼の意図を悟った。会わないままだと、彼女はきっとずっとそのことを引きずってしまう。だからこそ、実際に会わせて、相手が無事であることを自分の目で確かめさせる。そうすれば、心の整理がつく。だが、弘次の考えはまったく逆だった。彼は会いたくないのではない。会わないことで、彼女に自分を忘れさせないようにしているのだ。瑛介にはまだ、彼の目的が分からなかった。彼女を傍に置けないなら、せめて一生、記憶に残る存在になろうと。その事実を思うたびに、瑛介の胸には鋭い棘が刺さったままだった。瑛介の思いを理解した弥生は、もう反論しなかった。「でも......彼、私に会いたくないって言ってたわ」「もう一度試してみよう。それでも駄目なら、また別の機会にすればいい」「......うん」今はそれしかできない。ふと弥生が思い出したように言った。「そう、電話してみて。お母さんのところ、雨降ってないか確認して」「わかった」瑛介はすぐに電話をかけた。瑛介は彼女がこの豪雨で母と子のことを心配しているのをすぐに察したのだ。幸い、向こうは晴れだという。弥生はようやくほっと息をついた。もしあちらまで雨が降っていたら、移動が危険で心配でたまらなかっただろう。家族の無事を確認して安心した弥生はホッとした。外の雨は次第に弱まり、激しい雨音はしとしとと静かなものへと変わっていた。ソファに横になろうかと思ったが、うっかり寝てしまえば、瑛介がまた自分を抱えてベッドまで運ぶに違いない。もし彼の傷は無理をして、また開いてしまっては大変だ。
「良くなってきたね。これからは一日二回も薬を塗らなくていいかも。朝だけで十分だと思う」「うん。おかげで、傷の治りが早い」弥生は残りの薬品を薬箱にしまいながら言った。「薬がいいのよ」「君の手際もいいよ」弥生は唇を引き結び、ふと窓の外に目をやった。「この雨、いつまで降るんだろうね」瑛介も視線を外に向けた。「さあ......でも、この様子だと、しばらく止みそうにないな」昨日、彼女は「明日帰る」と言っていた。だが今朝起きてみれば、この大雨に足止めを食らっていた。互いに何を考えているのか、わかっていながらも、口に出そうとはしなかった。少しして、弥生が先に口を開いた。「とりあえず、朝ごはんに行こう?」「うん」二人は黙ったまま、並んで階下へ降りた。朝食を終えても、雨は止む気配を見せなかった。ホテル暮らしの二人に心配はないが、外出はできない。食後、部屋に戻った弥生は、ソファに腰を下ろしてスマホをいじっていた。今朝、瑛介の部下が以前彼女が使っていたスマホを届けてくれたのだ。手に取った瞬間、弥生は懐かしさに胸が詰まった。特に確認するまでもなく、充電して指が自然に動く。指先が記憶のままにパスコードを打ち込んでいた。その様子を見つめながら、瑛介は静かに唇を引き結んだ。やはり、体が覚えていることは多いな。ロックが解除され、弥生は何度か画面を操作した。やがて「やっと戻ってきた」というような安堵の笑みが、自然と唇に浮かんだ。「このスマホ、どうやって見つけたの?」「友作が今朝、送ってくれたんだ」「朝?」弥生は驚いた。「豪雨の中で?」「うん。わざわざ届けてくれた。今もまだ戻ってないらしい」その言葉を聞いて、弥生の胸に小さな罪悪感が芽生えた。あんな大雨の中危険じゃない。彼はそんな彼女の表情を見て、静かに言った。「心配するな。もし危ないと思うなら、雨が弱まってから帰らせればいい。今は外、かなり冠水してる。動いても無理だ」弥生はようやく少しほっとして、「......うん」と小さく答えた。だが、雨は昼になっても止まなかった。道路には膝まで水が溜まっていく。テレビでは緊急速報が流れ、各地の被害を報じている。「不要不急の外出を控えてください」と、繰り返し流れてい
多くの人の目には、彼女は野心のない人間に映るかもしれない。彼女自身もかつてはそう思っていた。人は挑戦し続けなければ成功できないのだと。しかし近年、彼女は本当に疲れを感じていた。おそらく、これまでの道のりが険しく、あまりにも疲れたのだろう。だから、少し立ち止まって休みたいと思うようになったのだ。それに何より、この数年、彼女は仕事でも十分に頑張ってきた。浩史のもとでいくつものプロジェクトをこなし、ボーナスも沢山もらったので、それなりに貯金もできた。帰郷したあと、たとえ理想の仕事が見つからなくても、小さな店を開けばいい――そう思うと、案外いい生活かもしれないと感じた。由奈は自分の私事を語らず、浩史もそれ以上は聞かなかった。代わりに別の話題を振った。「地元に帰るつもりか?」「はい、まずは実家に」浩史は口を開きかけたが、そのとき澪音がコーヒーを持って入ってきた。「コーヒーができました」そのため、浩史は言いかけた言葉を飲み込んだ。コーヒーは机の端に置かれたまま、二人の報告が終わるまで、彼は一口も手をつけなかった。報告が終わり、由奈が澪音を連れてオフィスを出ようとしたとき、澪音が小声で尋ねた。「私の淹れたコーヒー、社長のお口に合わなかったのかな?一口も飲まれてなかったみたいで......」少し気まずかった。由奈も浩史が自分で淹れさせておいて全く口をつけなかったことに驚いた。いったい何を考えているのだろう。でも、由奈は彼女を気遣って言った。「たぶん、淹れたばかりで熱すぎたのよ。冷めてから飲むつもりなんじゃない?」「そうなんですか......私、てっきり味が悪かったのかと」「もし味が悪いなら、一口飲んでからじゃないと分からないでしょ?一口も飲んでないんだから、気にすることないわ」「そうですね」澪音は安心したように微笑んだ。その笑顔を見て、由奈は内心で小さくため息をついた。澪音はとても繊細そうだ。もし彼女が社長の厳しい指導を受けたら、果たして耐えられるだろうか。そう思いながら由奈は言った。「今日はもう何もしなくていいわ。私が渡したマニュアルを読んでおいて。そこに、やっていいことと、やってはいけないこと、全部書いてあるから」「はい」きっと、あの厳しい条件を見たら、この仕事を続けたいとは
だが、彼女の前で「ぼんやりしていた」なんて認めることなど、浩史にはできなかった。それに、今この部屋にはもう一人いる。彼は視線を少しだけ横にずらし、淡々と口を開いた。「あっ君の名前は?」突然名指しされ、沙依はびくりと肩を震わせた。「あっ、あの......大内沙依です!」「そうか」彼はわずかに頷き、まるで先ほどの沈黙などなかったかのように静かな声で続けた。「昨夜はあまり眠れなかった。少し疲れている。コーヒーを淹れてきてくれないか?」冷たくも自然な口調。命令とも、雑談とも取れない。ちょっと待って、私がさっき「そんな仕事じゃない」って言ったばっかりなんだけど!?由奈は目を丸くした。唖然としたまま、沙依と視線を交わした。新人は戸惑いながらも、由奈の小さな頷きを見て慌てて部屋を出ていった。扉が閉まると、室内には二人だけ。しんと静まり返った空気の中、由奈はじっと浩史を見つめた。「......社長、昨日あんまり眠れなかったんですか?」彼は答えず、逆に問い返してきた。「化粧したのか?」一瞬、思考が止まった。まさか、浩史にそんなことを聞かれるとは思わなかった。ていうか、そんなに珍しい?ほんの薄化粧なのに。みんなして私の顔ばっかり見て......普段そんなにひどい顔してるの?居心地の悪さに、由奈は無理やり口元を引きつらせた。「......化粧くらい、してもいいでしょ?」その棘を含んだ声音に、浩史は一瞬だけ唇を引き結んだ。だがすぐ、少し低い声で尋ねた。「会社を辞めるから、気分がいいのか?」「......え?」言葉の裏に、微かな棘。彼がまだ退職の件を引きずっているのだと気づいて、由奈は内心で頭を抱えた。いやいや、もうサインまでしたのに、今さら何?しかし、上司の前で「気分がいい」なんて言えるわけもない。由奈は瞬時に笑顔を作った。「そんなことないですよ。ただ、もうすぐ会社を離れるので......せめて最後は、いい印象を残したいと思って。本当はすごく名残惜しいんです。全然うれしくなんてないですよ」社会人の常識は本音を言わないことだ。そう思って笑顔を見せたのに、返ってきたのは予想外の言葉だった。「名残惜しいなら、残ればいい。事情があるなら、話してみろ